映画「おくりびと」
金曜日にMOVIX倉敷で『おくりびと』をひとりで観た。平日の午後だったので観客はまばら。久々の映画館だ。健康上、いい兆し。普段はパニック障害の予期不安があって、長時間一箇所に束縛される理髪店や映画館は敬遠してしまう。いつ以来だろう? たぶん、手嶌葵が歌う「テルーの唄」と田中裕子の吹き替えがナイスだった『ゲド戦記』か、出来がひどすぎて疲れた『大奥』を、娘と一緒に観て以来だ。
さて、『おくりびと』。主演の本木雅弘が、僕のバイブルでもある、藤原新也の『メメント・モリ』(1983年作)に触発され、20代の終わりに仲間たちとインドを旅して、そこで死生観を考えることに目覚めた。青木新門『納棺夫日記』や上野正彦『死体は語る』、熊田紺也『死体とご遺体・夫婦湯灌師と4000体の出会い』などを読んで感銘を受け、人気放送作家・小山薫堂(くんどう)に話を持ちかけたことによって映画化が実現。

監督は、ピンク映画の監督時代から観客を笑わせるコメディのセンスは抜群、1985年に一般映画『コミック雑誌なんかいらない!』でメガホンを取り、それ以降、『木村家の人々』や『僕らはみんな生きている』、『壬生義士伝』、『バッテリー』など話題作をコンスタントに発表、いくつもの作品の色合いを持つカメレオン監督であり、観客に対するサービス精神旺盛な滝田洋二郎。
声フェチである僕のご贔屓のひとり、ウェブデザイナー・東野みさとがアシスタントを務めていたJ-WAVE「TOKYO LABORATORY」などのパーソナリティ、『カノッサの屈辱』や『料理の鉄人』といった番組の放送作家ほか、多種多彩な活躍がめざましい小山薫堂の初映画脚本作。本木雅弘の妻役・広末涼子の職業がウェブデザイナーなのは、東野みさとの影響大と見た。
あらすじ/プロのチェロ奏者をめざしていた小林大悟(本木雅弘)は、楽団の解散で夢をあきらめ、1800万円出して購入したチェロを売り払い、妻の美香(広末涼子)とともに田舎の山形県酒田市へ帰る。就職先を探していた大悟は「旅のお手伝い」という文句と好条件の求人広告を見つける。面接に向かうと社長の佐々木(山崎努)に即採用されるが、業務内容は遺体を棺に収める仕事。当初は戸惑いながら、妻にも詳しい事を言えないまま、納棺師への道を歩む大悟。ある日、妻に仕事内容がばれてしまい「そんな汚らわしい仕事は辞めてほしい」と懇願される。だが、さまざまな境遇の別れと向き合ううちに、大悟は納棺師の仕事に誇りを見いだしつつあった。
日本人が元来持っている「死生観」が納棺師という仕事を通じて、深く、丁寧に、描かれている貴重な映画だ。死を意識すれば、生が浮上してくる。別れを知れば、出会いがよりかけがえのないものになる。死に接することによって、今自分が生きていることの輝きを再認識できる。それはつまり、藤原新也の『メメント・モリ』に貫かれている「死をないがしろにすれば、生もおろそかになる。死を想え」というテーマそのもの。生と同じく、死もまた尊いものなのだ。50年生きてきて初めて知ったが、「納棺師」という仕事は、なんて奥深いのだろう。妻に「汚らわしい」といわれるように、ご遺体を扱うのだから、初めはみんな、うさんくさい目で見ている。それが、作業終了後には遺族がこぞって必ず感謝の言葉を述べる。体を清め、綺麗な衣装を着せ、死化粧をほどこす。その一連の作業には、凛とした美しさがあり、茶道や華道、武道などに通じるものがあると感じた。
そして、納棺師で最も感動的なのが、どんな死者であれ、平等に注がれる彼らの温かく優しい眼差し。亡き人と遺族の関係は平穏であるとは限らない。恨まれながら死んでいく人だっている。そんな死者にも納棺師は凛々しい所作と優しい眼差しで向かい合う。一部始終を見ていた遺族は、心が洗われて、思い知らされるのである。死が厳粛であり、別れが悲しいものであることを。この納棺師のひたすら美しい死の儀式は、一度でも親類縁者を出棺した経験がある人なら、涙なくして見られないだろう。恥ずかしながら、僕は納棺の場面のたびに泣いていた。
本木雅弘の静かな熱演が光る。この映画で彼の裸体が出てくるが、1992年の『シコふんじゃった。』の時のたくましい体形を維持していることに驚いた。表情でも台詞でも佇まいでも役を十二分に表現できる、こんな役者はそうそういない。中堅の男優ではナンバーワンだと思っている。邦画が彼に活躍の場を与えていないのが残念でならない。広くアジア市場へ積極的に打って出ることを望みたい。

テーマはシリアスながら、さすが滝田洋二郎、この映画でも実にバランスよくユーモアがちりばめられている。客の数は少ないけれど、館内は笑いが絶えなかった。ダークにかたよりがちなテーマを、適度な笑いで調和させながら、人それぞれの「死の尊厳」を訴えかけている。また、くせ者の社長・山崎努と生まじめな本木雅弘は名コンビで、そのやりとりはほほ笑ましい。
人の死を扱い、かつ山崎努とくれば、もう、伊丹十三監督『お葬式』の軽妙洒脱なユーモアを思い浮かべずにはいられない。納棺師の師匠・山崎努が食卓で本木雅弘に生命の宿命を説く濃厚なシーンが出てくる。伊丹監督へのオマージュとも取れて、これは見ものである。「たら・れば」なのが残念だが、伊丹十三が撮ったら、この映画はどうなっていただろう、なんてね。
少しネタバレになって申し訳ないが、え? すでに十分ネタバレ? じゃあ申し訳なくもないが、それまでも十分に脇役チャンプだったのに、『武士の一分』出演以来、どの邦画を観ても出てるじゃん状態の笹野高史である。この映画では、おとなしく画面に渋みをかもし出す役割に徹しているなあと思いきや、物語の山場で映画の肝となる名台詞を吐く。この台詞に思い至った小山薫堂に拍手である。ようやった、薫堂!
ちょっとだけ苦言を。映画は最終盤に主人公・大悟と父親の関係を軸に動いていくのだが、あまりに深入りしすぎて、表現が身動き取れなくなり、俳優の表情にゆだねざるを得なくなってしまったことが非常に気になった。とくに感情のやり場に困ったであろう広末涼子はかわいそうとさえ感じた。あそこまで踏み込まなくても、せっかく「石」という格好の小道具があるのだから、庄内平野や最上川など大自然をバックにした「引きの絵」に頼ったほうが、より余韻を残したラストへとつながっていったと思う。
久石譲のスコアによるチェロをフィーチャーした音楽は秀逸だ。山形・庄内地方の四季それぞれに表情豊かな自然と相まって、その美しさがいっそう際立っている。本木雅弘がチェロを弾くシーンを観ると、ボウイング(運弓法)や運指法が音楽にほぼぴたっと合っている。相当な特訓を積んだ後がうかがえる。そして、まだ幼少の大悟と妻を捨て、愛人を作り家を出て行った父親の生きざまを、台詞ではなく、荒波を乗り越えて生き抜いてきた男の顔で語っている、峰岸徹の遺作としても記憶にとどめておくべき作品だろう。
本作は、第32回モントリオール世界映画祭グランプリ、中国のアカデミー賞といわれる第17回金鶏百花映画祭・国際映画部門の作品賞・監督賞・主演男優賞を受けている。モントリオールはカナダに入植したフランス人の都市だけど、英国人が入植した地域の中心都市・トロントで『おくりびと』がどう受け取られるのか知りたいところだ。
父親との関係がもっとさりげなく描かれていたならば満点だったんだけどなあ。
いずれにしても本年度を代表する作品であることは
間違いない!
おすすめ度★★★★☆
by kzofigo | 2008-11-01 19:11 | ムービービーム























