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もみじへ

●チェット・ベイカー・シングス(03/04/15)


僕が18歳までを過ごした倉敷の商店街に1軒の喫茶店があった。

ジャズが流れ、気さくなママと猫がいて、観光客ではなく、

なじみの客が出入りするその店に、高校生の僕は入り浸っていた。

ママの夫であるマスターは、カメラとジャズ、そして何より自由を愛していた。

まるで“風”のようなその生き方に、僕はすごく憧れていた。


そのマスターがある日、忽然と姿を消した。

行方を告げず何日も帰らないことは日常茶飯事だったが、

今度だけは本当の蒸発だった。


やがて僕は倉敷を離れ、その喫茶店からも遠ざかっていった。

オセラ第2号で紹介した「倉敷・懐かしマーケット」に行ったとき、

20年ぶりに店へ行ってみた。

相変わらず店にはジャズが流れ、猫がいて、ママは気さくで、

何もかもがあの頃と同じだった。

みんなが歳を取ったこと以外には。


ひとしきり昔話に花を咲かせたあとで、ママが切りだした。

「実はおととし、パパが親戚の者に連れられて帰って来たの。

 細かった体がもっと細くなってて、驚いたわ。

 ガンだったの、もう手の施しようがない。

 私はパパを引き取って子供や孫と懸命に看護したけど、

 去年、70歳で逝っちゃった。

 みんなに見守られてね、いい死に顔だったわ」


マスターの指定席だったキャッシャーの壁には、

ジャズのLPジャケットが何枚か飾られている。

その中に『チェット・ベイカー・シングス』があった。

僕が「マスターって、チェット、好きでしたっけ?」と聞くと、

ママは「あれは息子の趣味」と、ほほ笑みながら答えた。


涙が出そうになった。

なぜなら、僕のオーディオラックにも、数え切れないほど、

チェット・ベイカーのアルバムがあるからだ。

by kzofigo | 2016-01-06 00:54 | 家族の友