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2/14 真実か 挑戦か

【ネタバレバレ厳重注意】


バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)





かつてスーパーヒーロー映画『バードマン』で世界的な人気を博しながら、現在は俳優業も私生活も落ちぶれ、失意の日々を送るリーガン・トムソン(マイケル・キートン)。彼は、レイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を自ら脚色、演出と主演も務め、復活を賭けブロードウェイの舞台に立とうとしていた。だが、出演俳優が大怪我を負い降板。実力派の舞台俳優マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)を迎えるが、その才能は次第にリーガンの脅威となっていく。疎遠だった娘サム(エマ・ストーン)とはぶつかってばかり。精神的に追い込まれたリーガンは、気づかないうちに舞台の役柄に自分自身を重ねていく・・・・・・。

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アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画は陰影に富んでいる。

『21グラム』では、まったく接点のなかった3人が、ひとつの事件をきっかけに、引き寄せられ、新たな関係の霧中において、自分の本性というものをあらわにしていく。しかし、あらわになる自分に、恐怖や戸惑いや拒否反応を示さずにはいられない。でも、その怖さのなかで、本能に突き動かされるように行動し、自分の本当の姿と向き合いながら、自分自身の弱さに打ちひしがれようとする。その有り様が、どうしようもなく人間的で、死ぬほど魅力的だった。

『バードマン』は、イニャリトゥ監督が初めて手がけるコメディ。郷ひろみ流に言えば、まるでハリウッド・スキャンダル、おかしな悲劇とかなしい喜劇が交差する、光と影のクレイジー・コメディ、である。


▼2度あるサムとマイクのOK屋上はラストに次いで好きなシーン
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心に不具合を抱えた者同士がめぐり会う描出に抜群の冴えを見せる、そんなイニャリトゥ独特のコメディを象徴するシーンがある。ジャンキー娘サムとお騒がせ俳優マイクが、劇場の屋上で、引き合わされるように出会い、「真実か 挑戦か」ゲームに興じる。普段は屈折した素行に終始する2人が、このシーンでは驚くほどプレーンなんだよね。まるで青春映画のような屋上シーンが一瞬の光明、あるいはひと時の凪(なぎ)だとすれば、あとは影のアイロニーが吹き荒れる。

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本作は、長回しで撮影され、クライマックスのラスト5分を除き、ほぼ全編がワンカットのように編集されている。これは、『ゼロ・グラビティ』で(本作でも)アカデミー撮影賞に輝いたエマニュエル・ルベツキの手腕による。まるで自分が舞台スタッフの1人として映画に入り込んだような錯覚を覚えた。


▼舞台の本番至上主義の勃起男マイクは上演中に恋人レズリー(ナオミ・ワッツ)に本番を迫る
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家庭はすでに崩壊。アシスタントとして雇った実の娘は薬物依存で反抗的。大根役者の男優の頭には照明が落下。代役として呼ばれた本物志向のマイクは用意したジンが水に替えられていたことに腹を立てプレビューをぶち壊し。舞台の成功を左右するNYタイムズの演劇批評家は「あんたはただのセレブ」と罵倒。ドツボに引きずり込まれたリーガン自身も、劇場の裏口がロックされ、タイムズスクエアの往来でオーライ、白いブリーフ一丁で衆目にさらされながら逃げ帰る醜態を演じてしまう。

ダメだ、この舞台は。

落ち込むリーガンを励ますのが彼の別人格であるバードマンだ。バードマンの挑発によってリーガンは宙を飛ぶ。また、超能力で空中に浮き、手を触れずに物を動かす。ただし、バードマンの声や実体、それに念動力も、リーガンの無意識に渦巻く負の情動が生み出した幻想に過ぎない。

production notes 2
2つの現実と1つの虚構が重層的で有機的に構成され、その流れのなかで物語は展開していく。マイケル・キートンが『バットマン』初代シリーズでブレイクしながらも、その後は作品に恵まれなかった現実は、虚構である本作中のリーガンの人物像にそのままリンクする。また、実在したレイモンド・カーヴァーはアル中のどん底から這い上がった人で、そのカーヴァーに虚構の存在であるリーガンは自らを重ねることで再起への過程を進もうとする。


▼リーガンの心が深く傷ついたとき、必ずバードマンが過去の成功体験の集積として現われる
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イニャリトゥはこう告白する。

何かを作っているときは、「俺は天才だ!無敵だ!」という自信と、
「俺には才能ない!ダメだ!」という自己不信が交互に襲ってくるものさ。
それを表現したんだ。


イニャリトゥはこうも吐露している。

カーヴァーを舞台劇にするなんて芝居について無知な者の選択だ。
バカげてるよ。


リーガンの俳優活動の原点はカーヴァーだった。高校生のとき、偶然に演劇部の公演を観たカーヴァーが、紙ナプキンに「誠実な演技だった」と書いてリーガンにくれた。リーガンはそれを約半世紀のあいだ肌身離さず持ち歩いている。そのカーヴァーは父譲りのアル中であり、また、末期ガンを宣告されたハビエル・バルデムが『BIUTIFUL ビューティフル』で2人の子どもを抱えて悩み煩うように、本作でもイニャリトゥが追い求めてきた父と子の葛藤が描かれる。

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音楽を担当したパット・メセニー・グループのジャズドラマー、アントニオ・サンチェスほか卓越したプレイヤーたちが、無声映画に合わせて語る活動弁士のようにアドリブ感あふれるドラムプレイで緊迫感を盛り立てている。本来なら映画の世界に直接には関与するはずのない背景音楽だが、突如として劇中にドラマーが登場することで、主従関係が一瞬、逆転する。この飛び入り演出は痛快だ。個人的にはサンチェスにアカデミー作曲賞を捧げたい。


▼今回の掘り出しモノならぬ掘り出しびと、エマ・ストーン演じるサマンサ(サム)
 父リーガンの付き人で薬物依存だったサムは要所で父に影響を与えながら自分も変容していく
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パパがこの芝居をやるのは、世間にとって重要な存在になりたいからでしょ。
何様のつもり? ブログを嫌って、ツイッターをバカにして、フェイスブックもやってない。
それじゃ存在しないも同じよ。死ぬときに私たちに覚えてもらいたいんでしょ。
でもね、あんたなんかどうでもいいわ。


実の娘からこんな罵声を浴びせられて、まともでいられる父親がどこにいるだろう。娘にとってリーガンは、スーパーヒーローなんてもんじゃない。存在すら危ういのだ。でも、これはこの映画にとって重要なセリフで、このあたりからリーガンの素の心情が、舞台の役柄に投影され始める。リーガンは舞台でDV男エドを演じるが、自分を拒絶した女がほかの男とベッドにいる現場に乗り込む。そして、愛を欲して叫喚する。それは断罪された娘に対する叫びでもあるだろう。

俺にだってなりたいものがあった。俺のような人間にはなりたくなかった。
君はもう俺を愛してないのか? 愛することもないのか・・・なら、俺は存在しないも同じだ。
どうでもいいんだ。


リハーサル、プレビュー、本番と念を押すように3度リピートされるこのセリフ、実は『愛について語るときに我々の語ること』に記述はない。本作の冒頭で表われる、カーヴァーが最後に書いた詩「おしまいの断片」が出どころだ。この詩はカーヴァーの墓に刻まれている。妻、テス・ギャラガーによって。カーヴァーは愛される者になれた。

リーガンはどうなるんだろう。

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エドワード・ノートンやエマ・ストーン、ナオミ・ワッツはじめ芝居巧者が好演。NYタイムズの演劇評論家タビサ(リンゼイ・ダンカン)、リーガンの盟友で弁護士でプロデューサーのジェイク(ザック・ガリフィアナキス)、リーガンの恋人で女優のローラ(アンドレア・ライズボロー)、リーガンの別れた女房シルヴィア(エイミー・ライアン)、それぞれにリアリスティックな芝居が光る。主役のマイケル・キートンは名演というより熱演だ。


▼このシーンは物語のけっこう佳境。心霊写真的な店員は華僑ではない
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いまでもリーガンはバードマンとして大衆に認知されている。でも、サインを求める人たちの記憶にあるのは、演技の良し悪しなんかじゃない。ただバードマンの役を務めたという有名無実なファクターがあるだけだ。さらに、幕が開くまでに巻き起こる目も当てられないごたごたの数々は、皮肉にも状況を好転させていく。舞台本来の価値とは無縁のスキャンダラスな出来事が話題を集め、結果的に舞台は多くの観客で賑わうことになる。

その状況を不快に思う批評家に酷評してやると宣言され、リーガンは苦渋を味わう。幸運なトラブルで手にしたサクセスなど、役者として何の成就でもないことくらい、リーガンにも分かっている。絶望感に覆われた彼は、酒を呷り、夜の街をさまよう。翌朝、路上で目覚めたリーガンは、劇場に入ると、劇中で使う小道具の拳銃を本物に替え、実弾を込めた。そして、舞台のラストシーン。エドとリーガン、それぞれの絶望は重なり合い、自分のこめかみに銃口を向け、引き金を引く。この悪夢を終わらせるために。

太陽に焼かれ翼を失ったイカロスが炎の塊となって墜ちていく。

再度目覚めると、リーガンは病院のベッドにいた。顔に巻かれた包帯を解くと、その鼻は、『シラノ・ド・ベルジュラック』でのジェラール・ドパルデューをモデルに(ウソ)手術で整えられている。リーガンは舞台で一度、死んだのだ。しかし、その突発的な行為は、役と演技を一体化したリアルな演出と客には勘違いされ、絶賛される。実際は、鼻を吹き飛ばしただけだった。バードマンという矜持の鼻っ柱を。リーガンは一度死ぬことでよみがえった。

もう、バードマン抜きでも飛べる。


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目論見どおり、リーガンはカムバックを果たすけれど、それが自分の意図したものではなかったことにより、リーガンの魂は解放されたのだ。自分がとらわれていた大衆の評判も批評家の格付けも社会的成功さえも、すべてがアホらしくなった。自分の鼻と引き換えに、リーガンが内なる力を獲得したことを、知り得る者はいない。でも、自分が充足感を得て、自分を愛することができるなら、それで充分じゃないか。

それに、その姿を目撃した娘サムの心も変容させる。サムには、父の悟り、達観が理解できた。リーガンは、他人の評価から解放され自由に飛び立つことで、初めて娘という、たった1人だけれど、かけがえのない観客を感動させ、これから歩むべき道筋を指し示すことができたのだ。

このラストシーンは何ものにも代え難く、心地よい幸福感で胸を満たしてくれる。


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『バードマン』には「無知がもたらす予期せぬ奇跡」というサブタイトルがついている。

イニャリトゥは結ぶ。

無知だからこそ、無茶なことに挑戦できるんだ。










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◎バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

by kzofigo | 2016-02-14 18:05 | ムービービーム