淋しいのは君だけじゃない 12/18
テレビドラマを中心に最後まで健筆をふるい、10日に70歳で亡くなった脚本家の市川森一さん。
テレビ番組の高度成長期でもあった1960年代から70年代初期。実写やアニメのテレビドラマに夢中だった。
そんななかで、『快獣ブースカ』(1966年~)や『ウルトラセブン』(1967年~)、『コメットさん』(1967年~)、『怪奇大作戦』(1968年~)、『帰ってきたウルトラマン』(1971年~)、『仮面ライダー』(1971年~)、『ウルトラマンA』(1972年~)など、ドキドキワクワクしながらテレビにかじり付いて見ていた番組の制作に、ひとりの脚本家が瑞々しい才能を注ぎ込んでいた。それが市川森一さんだ。
▼『快獣ブースカ』でデビュー
とくに『ウルトラセブン』で顕著だが、大人が見ても鑑賞に堪え得るテーマと表現方法で、ドラマとしての評価が高い。そんな子ども向け番組以外でも、たとえば『太陽にほえろ!』(1972~1986年)・・・当時はまったく脚本家の存在に興味を抱くことなどなかったが、いま振り返ってみると、実に数多くの番組で楽しませてもらっている。市川さんは、少年期に豊かな時間を過ごさせてもらった恩人のひとりだ。
人間の痛みを優しいファンタジーにくるみドラマを語る作風で市川さんは本領を発揮した。
市川さんを『ウルトラマンA』のメインライターに起用したプロデューサーは、『怪奇大作戦』や「ウルトラ」シリーズで社会的なテーマを強烈に打ち出した異色の人。現実をリアルに追究した批判精神を市川さんにも求めたが、ほとんどのライターがプロデューサーの主義に随従していくなかで、市川さんだけは最後まで屈しなかったという。最終的に、この番組を担当した市川さんは、人の生きる痛み、切なさ、怖さを、優しさを基本とした夢幻のフィルターを通して見せてくれた。
▼写真は明るいがドラマは暗い。夏純子さん、お世話になりました
ヒーローもののなかで異彩を放っていた『シルバー仮面』(1971~1972年)が忘れがたい。市川さんが全26話中、計8話を書いている。
目的は正義のためでありながら、世間から理解されず、冷たく迫害されながらも、父の遺した「光子ロケット」の完成を夢見て各地を放浪する「春日5兄妹(柴俊夫=シルバー仮面、亀石征一郎、夏純子、篠田三郎、松尾ジーナ)の葛藤」。この設定を前面に押し出し、「打倒ホームドラマ」を意図した、リアルで硬質なドラマ作りが念頭に置かれていた。シルバー仮面のキャラクターも地味で、派手な光線技や肉体技もなく、全体的に重いトーンの作りだった。
市川さんは後年、この作品について、「巨大な社会正義に押しつぶされそうになりつつも、懸命に生きる兄妹の姿を描きたかった」と述べている。ATGとアメリカン・ニューシネマが合体したような不条理劇的な演出に、市川さんならではの静かな怒りと哀愁が際立っていた。
▼衣装協力:MEN'S BIGI
僕が思春期を過ぎて、市川さんがかかわったテレビドラマで最も影響を受けたのは、何と言っても『傷だらけの天使』(1974~1975年)。松田優作の『探偵物語』(1979~1980年)と並んで青春のバイブルだ。
探偵事務所「綾部情報社」の調査員、修(萩原健一)と亨(水谷豊)のコンビが織り成すとっぽい生き方、会話、ファッションに、どれだけ憧れたことか。社長役の岸田今日子と実の従弟で秘書役の岸田森が醸し出す、とぼけた感じもよかった。お二人とも鬼籍に入ってしっまったのが残念だ。もちろん、経理担当兼電話受付のホーン・ユキにはぞっこんだった。
▼ホーン・ユキさん、お世話になりました
当初、亮役にキャスティングが予定されていたのは、NHK-BSプレミアム『日本縦断 こころ旅』で楽しませてもらっている火野正平だったが、彼のレギュラー番組が決まりスケジュールが合わなくなったため、水谷豊に変更されたそうだ。
井上堯之バンドによる軽快なタッチのテーマ曲とともに、皮ジャンを着て、ヘッドフォンと水中眼鏡を付け寝ていた修が目を覚まし、冷蔵庫の扉を開き、新聞紙をナプキン代わりに首から下げ、トマト、コンビーフ、ナビスコリッツ、魚肉ソーセージに次々とかぶりつき、口で栓を開けた牛乳で喉に流し込む。恩地日出夫監督が演出した、あのオープニングは誰もが真似をしただろう。
▼傷だらけの天使 オープニング動画
http://video.fc2.com/content/20111015uLDKEuPe/
暴力団の抗争から捨て子の親探しまで、ストーリーはバラエティに富み、2人の若者の怒りと挫折を、恩地日出夫、深作欣二、神代辰巳、工藤栄一といった監督陣が描き、その後の日本のテレビドラマや映画界に大きな影響を与えた。この探偵ドラマについて、メインライターを担当した当時新進気鋭の市川森一さんは、「13人の脚本家と監督による壮大な実験劇」と語っている。
映画は『異人たちとの夏』(1988年)に尽きる。原作は『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』の山田太一氏。なぜほかの脚本家に頼むのだろうと不思議だった。
「松竹から『異人たちとの夏』を私の脚本で映画化したいと打診があったとき、スケジュールがきつくてすぐに応じられず、『市川さんが脚色してくれたら承諾します』と答えたことを思い出します」(山田太一氏・談)という事情があったのだ。
シナリオライターの主人公(風間杜夫)が、死んだ両親(片岡鶴太郎・秋吉久美子)にばったり出会う。両親は当時のままで若く、大人になっている主人公を、子どもとして扱う。江戸っ子で寿司職人の父とキャッチボールをする。そして、浅草のすき焼き屋での別れ。こうやって書いているだけで涙腺が緩くなる。とくに、若い母親・秋吉久美子に中年の息子・風間杜夫がランニング姿で汗を拭いてもらうシーンは、「そいつぁ反則だぜ」と思いながらポロポロ泣いた。
▼秋吉久美子さん、大変お世話になりました
昭和40年代からドラマを支えてきた「戦友」として山田太一氏が思い出を語る。
「私の後から登場した脚本家のなかで、ずば抜けて素晴らしい才能を持っていました。なかでも『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)。西田敏行主演で、サラ金と大衆演劇を絡ませた人情劇には驚かされた。とてもユニークで面白く、色気もあるすごい仕事。市川さんの作品はどれも『淋しい~』からの副産物みたいな気がします。リアリズムじゃなくファンタジーの味がある方で、作劇術としても上手でした」。
消費者金融の被害者たちが素人劇団の劇中劇で救いを見出す姿を、現実と非現実の二重構造で鮮烈に描き、痛切な自戒のメッセージを含んだタイトルとともに、当時、社会現象にもなった『淋しいのはお前だけじゃない』。第1回向田邦子賞を受賞したこのテレビドラマのオンエアが、こちらは社会人1年生の仕事が超忙しい時と重なって見られなかったことが、残念でならない。(資料はすべてWikipediaより)
脚本の面白さがあっての『ウルトラセブン』だった。怪獣があまり出てこない回とか、そういったところを任されている印象が強かった。名作の回をたくさん書かれているので心に残っています。セブンがこれだけ残っているのも、脚本のおかげ。ちょっと早いですよね・・・森次晃嗣
市川森一さんのご冥福をお祈りいたします。
テレビ番組の高度成長期でもあった1960年代から70年代初期。実写やアニメのテレビドラマに夢中だった。
そんななかで、『快獣ブースカ』(1966年~)や『ウルトラセブン』(1967年~)、『コメットさん』(1967年~)、『怪奇大作戦』(1968年~)、『帰ってきたウルトラマン』(1971年~)、『仮面ライダー』(1971年~)、『ウルトラマンA』(1972年~)など、ドキドキワクワクしながらテレビにかじり付いて見ていた番組の制作に、ひとりの脚本家が瑞々しい才能を注ぎ込んでいた。それが市川森一さんだ。
▼『快獣ブースカ』でデビュー
とくに『ウルトラセブン』で顕著だが、大人が見ても鑑賞に堪え得るテーマと表現方法で、ドラマとしての評価が高い。そんな子ども向け番組以外でも、たとえば『太陽にほえろ!』(1972~1986年)・・・当時はまったく脚本家の存在に興味を抱くことなどなかったが、いま振り返ってみると、実に数多くの番組で楽しませてもらっている。市川さんは、少年期に豊かな時間を過ごさせてもらった恩人のひとりだ。
人間の痛みを優しいファンタジーにくるみドラマを語る作風で市川さんは本領を発揮した。
市川さんを『ウルトラマンA』のメインライターに起用したプロデューサーは、『怪奇大作戦』や「ウルトラ」シリーズで社会的なテーマを強烈に打ち出した異色の人。現実をリアルに追究した批判精神を市川さんにも求めたが、ほとんどのライターがプロデューサーの主義に随従していくなかで、市川さんだけは最後まで屈しなかったという。最終的に、この番組を担当した市川さんは、人の生きる痛み、切なさ、怖さを、優しさを基本とした夢幻のフィルターを通して見せてくれた。
▼写真は明るいがドラマは暗い。夏純子さん、お世話になりました
ヒーローもののなかで異彩を放っていた『シルバー仮面』(1971~1972年)が忘れがたい。市川さんが全26話中、計8話を書いている。
目的は正義のためでありながら、世間から理解されず、冷たく迫害されながらも、父の遺した「光子ロケット」の完成を夢見て各地を放浪する「春日5兄妹(柴俊夫=シルバー仮面、亀石征一郎、夏純子、篠田三郎、松尾ジーナ)の葛藤」。この設定を前面に押し出し、「打倒ホームドラマ」を意図した、リアルで硬質なドラマ作りが念頭に置かれていた。シルバー仮面のキャラクターも地味で、派手な光線技や肉体技もなく、全体的に重いトーンの作りだった。
市川さんは後年、この作品について、「巨大な社会正義に押しつぶされそうになりつつも、懸命に生きる兄妹の姿を描きたかった」と述べている。ATGとアメリカン・ニューシネマが合体したような不条理劇的な演出に、市川さんならではの静かな怒りと哀愁が際立っていた。
▼衣装協力:MEN'S BIGI
僕が思春期を過ぎて、市川さんがかかわったテレビドラマで最も影響を受けたのは、何と言っても『傷だらけの天使』(1974~1975年)。松田優作の『探偵物語』(1979~1980年)と並んで青春のバイブルだ。
探偵事務所「綾部情報社」の調査員、修(萩原健一)と亨(水谷豊)のコンビが織り成すとっぽい生き方、会話、ファッションに、どれだけ憧れたことか。社長役の岸田今日子と実の従弟で秘書役の岸田森が醸し出す、とぼけた感じもよかった。お二人とも鬼籍に入ってしっまったのが残念だ。もちろん、経理担当兼電話受付のホーン・ユキにはぞっこんだった。
▼ホーン・ユキさん、お世話になりました
当初、亮役にキャスティングが予定されていたのは、NHK-BSプレミアム『日本縦断 こころ旅』で楽しませてもらっている火野正平だったが、彼のレギュラー番組が決まりスケジュールが合わなくなったため、水谷豊に変更されたそうだ。
井上堯之バンドによる軽快なタッチのテーマ曲とともに、皮ジャンを着て、ヘッドフォンと水中眼鏡を付け寝ていた修が目を覚まし、冷蔵庫の扉を開き、新聞紙をナプキン代わりに首から下げ、トマト、コンビーフ、ナビスコリッツ、魚肉ソーセージに次々とかぶりつき、口で栓を開けた牛乳で喉に流し込む。恩地日出夫監督が演出した、あのオープニングは誰もが真似をしただろう。
▼傷だらけの天使 オープニング動画
http://video.fc2.com/content/20111015uLDKEuPe/
暴力団の抗争から捨て子の親探しまで、ストーリーはバラエティに富み、2人の若者の怒りと挫折を、恩地日出夫、深作欣二、神代辰巳、工藤栄一といった監督陣が描き、その後の日本のテレビドラマや映画界に大きな影響を与えた。この探偵ドラマについて、メインライターを担当した当時新進気鋭の市川森一さんは、「13人の脚本家と監督による壮大な実験劇」と語っている。
映画は『異人たちとの夏』(1988年)に尽きる。原作は『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』の山田太一氏。なぜほかの脚本家に頼むのだろうと不思議だった。
「松竹から『異人たちとの夏』を私の脚本で映画化したいと打診があったとき、スケジュールがきつくてすぐに応じられず、『市川さんが脚色してくれたら承諾します』と答えたことを思い出します」(山田太一氏・談)という事情があったのだ。
シナリオライターの主人公(風間杜夫)が、死んだ両親(片岡鶴太郎・秋吉久美子)にばったり出会う。両親は当時のままで若く、大人になっている主人公を、子どもとして扱う。江戸っ子で寿司職人の父とキャッチボールをする。そして、浅草のすき焼き屋での別れ。こうやって書いているだけで涙腺が緩くなる。とくに、若い母親・秋吉久美子に中年の息子・風間杜夫がランニング姿で汗を拭いてもらうシーンは、「そいつぁ反則だぜ」と思いながらポロポロ泣いた。
▼秋吉久美子さん、大変お世話になりました
昭和40年代からドラマを支えてきた「戦友」として山田太一氏が思い出を語る。
「私の後から登場した脚本家のなかで、ずば抜けて素晴らしい才能を持っていました。なかでも『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)。西田敏行主演で、サラ金と大衆演劇を絡ませた人情劇には驚かされた。とてもユニークで面白く、色気もあるすごい仕事。市川さんの作品はどれも『淋しい~』からの副産物みたいな気がします。リアリズムじゃなくファンタジーの味がある方で、作劇術としても上手でした」。
消費者金融の被害者たちが素人劇団の劇中劇で救いを見出す姿を、現実と非現実の二重構造で鮮烈に描き、痛切な自戒のメッセージを含んだタイトルとともに、当時、社会現象にもなった『淋しいのはお前だけじゃない』。第1回向田邦子賞を受賞したこのテレビドラマのオンエアが、こちらは社会人1年生の仕事が超忙しい時と重なって見られなかったことが、残念でならない。(資料はすべてWikipediaより)
脚本の面白さがあっての『ウルトラセブン』だった。怪獣があまり出てこない回とか、そういったところを任されている印象が強かった。名作の回をたくさん書かれているので心に残っています。セブンがこれだけ残っているのも、脚本のおかげ。ちょっと早いですよね・・・森次晃嗣
市川森一さんのご冥福をお祈りいたします。
by kzofigo | 2011-12-18 22:10 | マイ・ライフ