肉慾の餓鬼
彼女も亦、徐々に肉慾の餓鬼となりはてて行った。
芋虫
原作 江戸川乱歩
脚色・作画 丸尾末広

漫画の前に原作について。
江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は雑誌「新青年」に『悪夢』のタイトルで1929年(昭和4年)に掲載。本来は雑誌「改造」のための書き下ろしだったが、反戦的な表現と勲章を軽蔑するような表現があったため、娯楽雑誌「新青年」にまわされた。それでも掲載時は伏せ字だらけ。戦時中は全編削除を命ぜられた。

期待が大きすぎたせいか、最初に読んだときは、「あれ? こんなもん?」って思ったけれど、映画とはまったく違う、クライマックスの虐待の極みには興奮し、エンディングには感動さえ覚えた。2度、3度、そして20回、30回と読み重ねるうちに、中毒性ではなくて、親しみからこの漫画に手が伸びるようになった。
僕は丸尾末広の絵がグロテスクだとは思わない。たとえばセックスシーン。アミで薄められていて見苦しいのが残念だが、性器の細部まで手抜かりなく描かれた絵は、「うん、うん、これだよ、これ」と十分に納得できる、正しいスケベである。
下の2枚の絵のようなシンボリックなカットは、妄想の暴走に拍車をかけるターボエンジンのような快感で「ニヤリ」とさせてくれるのはありがたいが、おのれの妄想の行き着く先より、もっとずっと数段上から手を振られているみたいで、「ちぇ、まいったなあ」と内心、地団駄を踏んでいるのだ。

映画との設定の違い。
漫画(原作)では、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の「日露戦争」とそれに続くシベリア出征の時代。このシベリア出征が1918年~1922年に連合軍がシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争のひとつかどうかは不明。
与謝野晶子の詩『君死にたまふことなかれ』(1904年9月)の頃だ。
時子の夫・須永中尉は、日露戦争の英雄でありシベリア出兵で無残な廃兵になった。内耳も声帯も損傷し四肢をもがれた夫の有り様を見て、時子は、映画のシゲ子が気がふれたように村を駆けずり回るような面倒くさいことはせず、わかりやすくただ失神するのである。
映画では、1940年(昭和15年)の「日中戦争」に置き換えられている。生活が貧しいとはいえまだマシな漫画の時代に比べ、映画は配給制の食糧事情をはじめ暮らしは困窮を極めている。そして当然のことながら、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送がクライマックスになる。
漫画では、時子と夫との残酷かつ感動的な愛憎劇で終焉を迎えるが、映画では結末に至る理由が異なっている。制作者、つまり若松孝二監督のイデオロギーを色濃く反映したものになった。もともと著作権料などの問題で原作をそのまま映画化できず、最終的には「乱歩作品から着想を得たオリジナル作品」としている。
そうそう、漫画の「夫が僅かに持ちうる外部との接続器官である眼が、余りにも純粋であること」の代わりだと思うのだけれど、夫が中国で犯した強姦・虐殺の記憶に苛まれインポになる設定も映画独自のものだ。

ピンク映画出身の若松監督だからこその望みだけど、漫画で「時子が寝る前に自分のアソコにバナナを入れておいて、朝になって取り出して夫に食べさせる」シーンは、映倫に引っ掛からないアングルをやりくりして撮ってほしかったなあ。
まあ、江戸川乱歩だよね。すごい。昭和4年に(オヤジが生まれる3年前だ)こんな小説を発表してるんだから。そのすごい原作をまんま映画にできなかったから、『キャタピラー』はあんなに悔しそうなんだね。丸尾末広の『芋虫』を読んでそれがわかった。
納得いくまで『芋虫』を読み返したら、丸尾末広の代表作『パノラマ島綺譚』に手を出してみようかな。
原作『芋虫』は2005年オムニバス映画『乱歩地獄』で映画化され公開されたとある。追って調査の予定。
とりあえず予告編、発見。
ちなみに、僕が卒業した高校は日露戦争があった翌年の明治39年創立。高校3年在学時、創立70周年で記念式典があり、旧制中学時代の校歌を男子が応援団風に歌うアトラクションがあった。
僕は歌詞の一節「征露の役の記念なる 栄えある校の理想もて」の前半部分が死ぬほど大ッキライであり、歌うのが嫌で伴奏の和太鼓叩きに志願した。
高校のOBで僕が入学することになる大学の学長が行なった記念講演は同級生Nとボイコットした(Nの家で朝まで話し込んで寝過ごしただけという噂もあり)。
芋虫
原作 江戸川乱歩
脚色・作画 丸尾末広

漫画の前に原作について。
江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は雑誌「新青年」に『悪夢』のタイトルで1929年(昭和4年)に掲載。本来は雑誌「改造」のための書き下ろしだったが、反戦的な表現と勲章を軽蔑するような表現があったため、娯楽雑誌「新青年」にまわされた。それでも掲載時は伏せ字だらけ。戦時中は全編削除を命ぜられた。
江戸川乱歩 小説【芋虫】
◎登場人物
・須永時子(すなが ときこ)/本作の主人公。夫を虐げることを至上の悦びとしている。
・須永中尉(すなが ちゅうい)/時子の夫。戦争で負傷し、五体の機能をほとんど失った。金鵄勲章を下賜される。
・鷲尾少将(わしお しょうしょう)/須永夫婦に家を貸している予備少将。
◎あらすじ
傷痍軍人の須永中尉を夫に持つ時子には、奇妙な嗜好があった。それは、戦争で両手両足、聴覚、味覚といった五感のほとんどを失い、視覚と触覚のみが無事な夫を虐げて快感を得るというものだった。夫は何をされてもまるで芋虫のように無抵抗であり、また、夫のその醜い姿と五体満足な己の対比を否応にも感ぜられ、彼女の嗜虐心は尚更高ぶるのだった。
ある時、時子は夫が僅かに持ちうる外部との接続器官である眼が、余りにも純粋であることを恐れ、夫に酷い仕打ちを行なう。悶え苦しむ夫を見て彼女は自分の過ちを悔い、謝罪する。間もなく、須永中尉は失踪する。時子は大家である鷲尾少将と共に夫を捜し、夫の走り書きを発見する。その後、庭を捜索していた彼女たちが聞いた音は…。

【帯の惹句】
最も危険、最も禁忌。
乱歩×丸尾、最強のコラボレーションは今、さらなる闇の奥底へ。
猛毒にして絢爛たる、手塚治虫文化賞受賞後第一作。
世界を震撼させた受賞作『パノラマ島綺譚』に続き、漫画界の魔人・丸尾末広が再び挑むは、巨星・乱歩の全作中…いや、日本文学史上、最凶の問題作。妖美極まる驚愕の画力で描く、比類無き怪奇と戦慄に満ちた、愛欲の地獄。
これは奇跡か、或いは悪夢か。さあ、禁忌の扉を、開け。
期待が大きすぎたせいか、最初に読んだときは、「あれ? こんなもん?」って思ったけれど、映画とはまったく違う、クライマックスの虐待の極みには興奮し、エンディングには感動さえ覚えた。2度、3度、そして20回、30回と読み重ねるうちに、中毒性ではなくて、親しみからこの漫画に手が伸びるようになった。
僕は丸尾末広の絵がグロテスクだとは思わない。たとえばセックスシーン。アミで薄められていて見苦しいのが残念だが、性器の細部まで手抜かりなく描かれた絵は、「うん、うん、これだよ、これ」と十分に納得できる、正しいスケベである。
下の2枚の絵のようなシンボリックなカットは、妄想の暴走に拍車をかけるターボエンジンのような快感で「ニヤリ」とさせてくれるのはありがたいが、おのれの妄想の行き着く先より、もっとずっと数段上から手を振られているみたいで、「ちぇ、まいったなあ」と内心、地団駄を踏んでいるのだ。

映画との設定の違い。
漫画(原作)では、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の「日露戦争」とそれに続くシベリア出征の時代。このシベリア出征が1918年~1922年に連合軍がシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争のひとつかどうかは不明。
与謝野晶子の詩『君死にたまふことなかれ』(1904年9月)の頃だ。
時子の夫・須永中尉は、日露戦争の英雄でありシベリア出兵で無残な廃兵になった。内耳も声帯も損傷し四肢をもがれた夫の有り様を見て、時子は、映画のシゲ子が気がふれたように村を駆けずり回るような面倒くさいことはせず、わかりやすくただ失神するのである。
映画では、1940年(昭和15年)の「日中戦争」に置き換えられている。生活が貧しいとはいえまだマシな漫画の時代に比べ、映画は配給制の食糧事情をはじめ暮らしは困窮を極めている。そして当然のことながら、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送がクライマックスになる。
漫画では、時子と夫との残酷かつ感動的な愛憎劇で終焉を迎えるが、映画では結末に至る理由が異なっている。制作者、つまり若松孝二監督のイデオロギーを色濃く反映したものになった。もともと著作権料などの問題で原作をそのまま映画化できず、最終的には「乱歩作品から着想を得たオリジナル作品」としている。
そうそう、漫画の「夫が僅かに持ちうる外部との接続器官である眼が、余りにも純粋であること」の代わりだと思うのだけれど、夫が中国で犯した強姦・虐殺の記憶に苛まれインポになる設定も映画独自のものだ。

ピンク映画出身の若松監督だからこその望みだけど、漫画で「時子が寝る前に自分のアソコにバナナを入れておいて、朝になって取り出して夫に食べさせる」シーンは、映倫に引っ掛からないアングルをやりくりして撮ってほしかったなあ。
まあ、江戸川乱歩だよね。すごい。昭和4年に(オヤジが生まれる3年前だ)こんな小説を発表してるんだから。そのすごい原作をまんま映画にできなかったから、『キャタピラー』はあんなに悔しそうなんだね。丸尾末広の『芋虫』を読んでそれがわかった。
納得いくまで『芋虫』を読み返したら、丸尾末広の代表作『パノラマ島綺譚』に手を出してみようかな。
原作『芋虫』は2005年オムニバス映画『乱歩地獄』で映画化され公開されたとある。追って調査の予定。
とりあえず予告編、発見。
ちなみに、僕が卒業した高校は日露戦争があった翌年の明治39年創立。高校3年在学時、創立70周年で記念式典があり、旧制中学時代の校歌を男子が応援団風に歌うアトラクションがあった。
僕は歌詞の一節「征露の役の記念なる 栄えある校の理想もて」の前半部分が死ぬほど大ッキライであり、歌うのが嫌で伴奏の和太鼓叩きに志願した。
高校のOBで僕が入学することになる大学の学長が行なった記念講演は同級生Nとボイコットした(Nの家で朝まで話し込んで寝過ごしただけという噂もあり)。
by kzofigo | 2011-06-13 12:46 | アート姉ちゃん























